New pre-war

GDP比2% 年10兆円を超える軍事費になれば、世界第3位の軍事大国に 「反戦の準備をしよう」のページへ

いま多くの識者が「戦争の準備」に警笛を鳴らす発言をしています。

タレントのタモリさん

「来年は新しい戦前になるんじゃないでしょうか」2022年12月28日放送の「徹子の部屋」で黒柳徹子さんから「来年はどんな年になりますかね」と聞かれ、タレントのタモリさんは、そう答えました。ネットではこの言葉で話題沸騰。ロシアのウクライナ侵攻を受けての発言ではないかという声もありますが、タモリさんが語ったのは、日本が戦争に向けて動き始めるだろうという予測ではないかという見方が大半。
 「新しい戦前」とは、今生きている日本人がほぼ誰も経験していない「戦前」がもうやって来ている、「このままでは同じ道をたどることになる」という事でしょう。今の政治の特徴を一言で言い表した考え深い言葉です。

吉永 小百合さん


 俳優の吉永小百合さんは2023年1月1日の東京新聞のインタビュー「吉永小百合さんが手渡したい思い」で、昨年末に敵基地攻撃能力や防衛費増額という大変な問題を、みんなで考えるのではなく政府がどんどん決めていこうとすることに触れ、「山田洋二監督と以前撮った『母べえ』の時代に戻ってしまうんじゃないのか、と心配でした」と語っています.

2023年1月1日 東京新聞

田中 優子さん

 法政大学前総長の田中優子さんは、2023年1月15日付の東京新聞、「時代を読む」で「反戦の準備をしよう」と呼びかけました。

 田中優子さんは、2022年12月、ジョンレノンの「平和を我らに」(ベトナム戦争時の反戦歌)を久々に耳にしたことや、同じジョンレノンの「イマジン」を思い出し、「今はそれが突き刺さる」と述べています。

 敵基地攻撃能力などにふれながら、「日中戦争が『満州事変』という名で始まり、日米戦争が宣戦布告ナシに真珠湾攻撃で始まり、ウクライナ戦争が「特別軍事作戦」という名で始まったように、戦争は突然はじまり、その原因は一方的に相手にあるとされる。つまり『防衛のため』と言い続ける。だから、反戦の準備をしよう」と呼びかけました。

2023年1月15日 東京新聞

故 加藤 周一さん ‶戦争の準備ではなく平和の準備を”

加藤さんは「九条の会」呼びかけ人です。

加藤さんは2005年11月の「九条の会」の講演会で「平和を望むなら、戦争の準備をせよ」というラテン語のことわざを紹介しつつ、これは「間違っていいます」と指摘しました。「戦争の準備をすれば、戦争になる確率が大きい。もし平和を望むなら戦争の準備せよじゃない。平和を望むならば、平和の準備をした方がいい。戦争を準備しない方がいい。準備は用意に本当の戦争の方へ近づいていく。非常に早く」と語りました。

14年には、「九条の会」10周年の講演会で、作家の大江三郎さんも加藤さんのこの言葉を引用し「そのとおりです。非常にまじめで、どこか不思議なユーモアがある論理です」とのべています。

宮本 亜門さん

演出家の宮本亜門さんは沖縄県主催のシンポジウムで「戦争は天災ではない、人災だ。人災は止めることができる」「今、私たちは大きな分岐点にきている。私は止めるために動いていきたい」と発言しています。

ニーメラーとその言葉とは


 「『発端に抵抗せよ』と『終末を考慮せよ』というあの一対の有名な格言を私は何度も考えてきました。でも、発端に抵抗するためには、それが発端だとわかるためには、終末が見越せなければならないのです。…ニーメラー牧師は、(御自分についてはあまりにも謙虚に)何千何万という私たちのような人間を代弁して、こう語られました。

ナチ党が共産主義を攻撃したとき、私は自分が多少不安だったが、共産主義者でなかったから何もしなかった。ついでナチ党は社会主義者を攻撃した。私は前よりも不安だったが、社会主義者ではなかったから何もしなかった。ついで学校が、新聞が、ユダヤ人等々が攻撃された。私はずっと不安だったが、まだ何もしなかった。ナチ党はついに教会を攻撃した。私は牧師だったから行動した―しかし、それは遅すぎた、と」

 マルティン・ニーメラー(1892―1984)の言葉として知られるものは、米国の記者ミルトン・マイヤーの著作『they thought they were free』(『彼らは自由だと思っていた――元ナチ党員10人の思想と行動』(田中浩・金井和子訳、未来社)〉の中にあり、ある言語学者が次のように語っているのを引用したものです。

 1933年、ヒトラーが首相になると、教会を第三帝国教会に一元化してナチズムに利用することや、ユダヤ人牧師などを排除する「アーリア条項」導入を企てます。

 第一次大戦末期、Uボート艦長として従軍、その後ルター派の牧師になったニーメラーは、ヒトラーが教会を攻撃した段階で立ち上がり、牧師緊急同盟をつくり抵抗しますが、37年7月、逮捕され、ザクセンハウゼン(後にダッハウ)強制収容所に終戦まで収容されました。(彼の生涯は、D・シュミット著、雨宮栄一訳『マルティン・ニーメラー』(新教出版社)にくわしい)

 45年秋、妻とともにダッハウを訪れた彼は、「ここで33年から45年までに238756名の人間が殺された」と書かれた掲示を見て、「自分はもう他人の罪について云々することはできないと感じた」といい、罪の自覚の上に、西ドイツの再軍備や核兵器に反対していきます。

 46年1月、ゲッチンゲンでの説教では次のように語っています。

 「私には罪がある。なぜなら私は1933年になっても、ヒトラーに投票したし、また正式な裁判なしに多くの共産党員が逮捕され投獄された時にも、沈黙を守っていました。そうです。私は強制収容所においても罪を犯しました。なぜなら、多くの人が火葬場にひきずられて行った時、私は抗議の声をあげませんでした」

ヘルマン・ゲーリング 

「もちろん人々は戦争を望みません。これはイギリスでもアメリカでもドイツでも同じことです。

しかし人々は常にリーダーに影響をされてしまうのです。

簡単なことです。国民に向かってわれわれは攻撃されかかっているのだとあおりたてて、平和主義者に対しては、『お前たちは愛国心に欠けている、お前たちが国を危険にしているんだ』と非難すればよいのです」

「そしてこの方法は、どんな国でもうまくいきますよ」

ヘルマン・ゲーリング / アドルフ・ヒトラ—率いるナチス・ドイツでナンバー2まで上り詰め、一時はヒトラーの後継者とまで言われた軍人